ため池の堤防に立つ母

 アルコール依存症が進行してくると禁酒と連続飲酒が交互にくり返されると言われていますが、私もそうでした。昭和五八年二月四日、私は久しぶりに痛飲し、一升二、三合は飲んだと思います。翌朝はもの凄い二日酔いで、迎え酒をしました。このせいで連続飲酒になり、一〇日間も酒だけで生きました。
 酔いつぶれて寝ていると姉が来て、「おかちゃんがため池の堤防に立ってはる」と言うのです。私は「みっともない奴だ」と腹を立てたのですが、母にすれば悲しくて死にたかったのです。若いころに未亡人になり、懸命に働いて息子を育ててきたのに、その頼りにする息子がアル中になってしまったので、悲しかったのでしょう。
 連続飲酒も一日目、二日目の夜はまだ元気で夜更けに、車に乗って外へ飲みに出かけていました。大衆食堂かラーメン屋などの安い店で飲むのです。腹一杯飲んで、飲酒運転で帰りました。
私は三年前に飲酒運転で免許取消処分をうけ、二か月前にやっと再取得した免許で飲酒運転して夜の一時ごろ、村の入口まで帰ってきました。ヘッドライトが村の入口付近で、白いものを闇に浮かべます。それは私の老母の白髪でした。老母が前をゆく車、一台一台にむかって手を振っているのでした。息子なら停車するはずだと思っているのでしょう。
私は、老母の前で車を停めると、運転席のドアをあけ、
「カッコ悪い」
と怒鳴りました。母はいつも夜の一二時、一時ごろ、村の入口に立って手を振ってきました。そして私は毎回、わめいてきました。母にすれば息子の飲酒運転が心配で心配でたまらず、すこしでも息子に接近しようと思って村の入口まで歩いてきていたのでしょう。
村の入口から家まで歩けば一〇分ほど必要なのですが、私は一度も助手席に母を乗せることがありませんでした。
連続飲酒をしたあと、断酒会に入会することができました。入会後は一回も飲むことがなく今日まで歩いてきました。
 老いた母は世話がかかるようになりました。朝と夕方、母を散歩に連れだし、手をつないで歩きました。そうこうしていると尿をはずすようになりましたので、私が紙オシメを替えていました。さらに年数が経ちました。妻がフルタイムでの会社勤務ですから、入浴も私の役目になり、脱衣・着衣をやって入浴させました。母はうれしそうでした。そのうち母は一人で食事できなくなり、私が一日三回、スプーンを使って一口ずつ食べさせました。その母を自宅で看取り、享年一〇〇歳で永眠しました。

 

Text.奈良市断酒会 中本新一

2016年10月10日