断酒例会に出席すると、酒害者の家族、主に妻や子どもたちの体験談から、多くの気付きを得ることになる。酒害は、心身の健康の喪失はもちろんのこと、貧困、社会的孤立、虐待、DVなど、この世の艱難辛苦を余すところなく関わる人々にもたらす。あらゆる逆境を乗り越え、戦い、疲れ果てて断酒会に辿り着いた人たちの体験談に耳を傾けながら、それでも離れなかった、捨てきれなかった家族の存在に、大いに驚かされるのである。家族とは何ぞや。考え込んでみたところで、そう容易には答えは見つからない。実は、我が国の民法では、「親族」の規定をしても、「家族」の定義は特にない。
そこで、本コラムにおいて、社会福祉論的に家族について再考してみることにする。
家族とは、夫婦・親子・兄弟を中心に構成される基礎的な集団であるが、長きにわたって明確な定義づけは困難とされてきた。担っている責任や、俗に言う愛と絆のような、感情を重視する定義もある一方、当人が主張すればそれは家族であるということもできる。
定義はともかくとして、家族の機能は、多くの社会学者によって議論されてきた。基本的な見解は、近代の産業化や都市化の中での機能の縮小である。古来、家族は家父長制に代表されるような制度に規定されていたが、近代家族は個人間の感情(愛情)に基づくものになったと論じられている。その機能を「子どもの社会への適応と、成人のパーソナリティの安定」と説くパーソンズ(米国の社会学者)の家族論は有名である。
家族は、生活を営むための集団であるだけでなく、法・習慣などの社会規範に則り、社会を安定させる役割も担う。居住規制と財産の継承を基準として分類すると、夫婦家族制(夫婦を基本単位とする。子はやがて家を出て独立するため、夫婦一代で消滅していく)、直系家族制(一人の子だけが親と同居し、その家の跡継ぎとなるもので、家が直線的に継承されていく。日本の戦前の家制度はこれである)、複合家族制(複数の子が結婚後も親と同居する。必然的に大家族になっていくが、親の死とともに子は遺産を分割相続して分散していく)の3つに分けられる。
家族の類型は、その代表的なものに、定位家族と生殖家族、そして核家族と拡大家族がある。定位家族とは、自分が生まれ育ち社会化された家族であり、生殖家族とは自分が結婚してつくった家族である。これは、自分を中心とした類型である。一方、家族の構成による分類では、核家族は夫婦と未婚の子からなる単位とされ、拡大家族は核家族をつくっている夫婦の親が同居したり、夫婦の兄弟姉妹が同居するような形態を言う。
我が国における家族制度の変容は、高度経済成長期以降の核家族を中心とした形に行きつく。周囲から介入されにくく、プライバシーを保つ一方、ストレスが家族内で表面化しやすく、さらに現在は、その核家族もまた、周囲からの孤立、育児不安、虐待など問題が山積するようになった。各地で相次ぐ孤立死や高齢者の所在不明問題は、家族制度変容の弊害の露呈ということになる。これには、家族はもちろん、親族ネットワークの変化が大きく絡んでいる。親族はかつて、家族間でカバーしきれない育児や高齢者の介護を担った。しかしながら、家族意識の変化や主婦の就労、住宅・通勤事情の悪化などで家族のケア機能は低下した。親族ネットワークに目を向けても、相互の扶助精神や連帯感は激減している。また、高齢者を介護するサービス機関の増加によって、皮肉にも家族の絆がより弱くなったとも考えられる。
高齢者をめぐる家族は、家長制度の消滅とともに年長者を敬う習慣が薄れ、特にケア機能を発揮しにくくなった。65歳以上の高齢者がいる世帯は、2007年には全世帯の40%を超え、その半数以上が単独か夫婦のみの世帯である。子どもとの同居率は、この30年間で7割から4割に激減し、世論調査での高齢者の心の支えの多くが子どもであるにもかかわらず、別居の割合が増加しているのである。無縁社会などと言われて久しいが、日本に長幼の序はなくなってしまったのだろうか。喪失された家族機能を、社会福祉は補い支えていけるのか、疑問視される。機能不全家族は、アディクションに関連するだけの悲しい物語ではない。
さて、今日もまた家族会員の優しさと知恵に出会いに例会に出かけよう。我が断酒会の家族会を見よ。そこには、涙を越えた清々しい笑顔があり、限りない温もりがある。社会で失われゆくものが、断酒会では着々と育まれていくのを目撃するのだ。断酒会には、いくつかのパラドクスが存在するが、大げさな話でもなく、人類再生の一つのモデルケースとはなり得ないだろうか。